四国巡礼の旅


 茶道のお軸に「破草鞋」と言う言葉があります。禅の言葉で、履きくずして鼻緒も切れてしまい、全く役に立たなくなったわらじのことをいいます。これは中国唐代の高僧で百丈禅師という方が、わらじを踏み破り、かかとがすり切れるほど一所懸命に修業された事に由来しています。
 うららかな春の日、私は四国に旅立ちました。というのも、姉のご詠歌の生徒さん達に混ざりお寺の行事の一貫として私もご一緒させて頂くことになったのです。
 今回は、うるう年という事で「逆打ち」をする事になりました。「逆打ち」とは、一番からまわるのではなく、八十八番から逆にまわって行くという事で、衛門三郎という人の話に由来しますが、うるう年に逆にまわる事で、お大師さま(弘法大師)に会える、願いが叶うとされています。
 日々に追われ旅行らしい事はしていなかった私でしたが、「ふっ」と「そうだ、四国に行こう」と、どこかで聞いたことのあるフレーズが頭をよぎり、旅立つ決意をしました。
 六泊七日の一週間の旅。白装束と菅笠、金剛杖をそろえ四国に旅立ちました。一緒に参加した方々は、平均年齢六十五才。三十人でその内若手は、先達の僧と姉、私の三人だけでした。
 昔少女だった方達に混ざり、お寺をまわり始めました。般若心経、南無大師遍照金剛と各お寺の仏様のご真言、ご詠歌を本堂、大師堂でお唱えし、お大師さま(弘法大師)の足跡をたどるため、山深いお寺の長い坂や階段を、息をつまらせながら、ひたすら登りお寺参りをするのです。「お遍路さん」四国では、私達をそう呼びます。そして、大切に迎え入れ、接待をしてくれます。道ゆく私達に、果物やお茶などを提供し、徳を積む。布施の行をして下さるのです。後から聞いた話では、私達お遍路を、お大師さまと思ってして下さるとの事。私もありがたく慎んで受けました。
 お遍路さんの挨拶で「ようまいり」という言葉があります。お遍路さん同士の挨拶で使う言葉ですが、「よくお参り下さいました」という意味で、言われて初めて気づきましたが、心がほぐれ、一種同志的気持ちになり、自然と感謝の気持ちが湧きあがってきます。
 そして「同行二人」、私達は金剛杖をお大師さまと想って杖を支えに旅を勧めます。「二人」とは、どんな時もお大師さまと一緒という意味で、その杖は、旅の途中、行き倒れになっても、自分の墓標になる杖です。いわば死を覚悟して、装束をまとい旅をする。お遍路さんの間では、四国は死国とも呼ばれています。
 そんな中、私にとっての同行、昔少女だった方々は、沢山の事を私に教えてくれました。車中では、足が悪い、腰が痛いと言って、私も大丈夫かと心配していましたが、いざ登り始めると、「桜がきれいだ、空気が良い…」と言いながら、「あっ」と言う間に上ってしまう。(こんな力を隠し持っていたとは…)と未熟な私は、驚きを隠しませんでした。
 そして、旦那様を亡くした事、子供を亡くした事を、ぽつりと呟き、涙を滲ませ、そして、「この旅は魂の洗濯だ」と少女の様に笑ってみせました。私は、黙ってそんな彼女の背中を押してあげる事しか、できませんでした。
 最終日、残すお寺もあと一つとなった、一つ手前のお寺「岩屋寺」。山門から、本堂まで、山肌の階段を登って二十分。歩き疲れた体に追い打ちをかけ、難所とも言われているお寺です。
 そこで私は、一人の老女に出会いました。お参りを済ませ、帰り道、山門まで戻ると、老木で作られた長椅子に、その老女は一人座っていました。先を急ぐお遍路さんに、ひたすら手を合わせ、老女は、そこに居ました。
 私は思わず声をかけました。「おはようございます。上には行かないのですか?」と。白装束を着ているわけではない老女は、都会から来た、私の同行とは違って、着の身着のままといった感じでありました。静かに目を開けた彼女は、「私は、八十四才、ここまで頑張って登ってきたが、ここから先は足が悪く登れない。ここでお参りをしているのです。」と話してくれました。それならば、と私は、今、お参りをして来たばかりだからと、少しでもご利益を分けられたらと、彼女の手は、石のように冷たく、そこに居たであろう長い時間を私に思わせました。老女は、涙を流し何度も何度も「ありがとう、ありがとう」と私に言いました。私はその冷たい手を握りしめながら、胸が熱くなり、「さようなら」と言えず、何故か「また逢いましょう」と何度も言っていました。私と一緒にいた、ウメさんは、老女に沢山のアメをあげていました。
 老いるという事の悲しさ、信じる事の大切さ、彼女の手から沢山のものが伝わってきて、帰り道、涙が止まりませんでした。
 何度も振り返る私に、老女は、いつまでも手を合わせていました。「きっとまた逢える」漠然とした言葉が、何故か確信的な気持ちに変わり、私は四国を後にしました。

合掌  


平成二十年四月吉日