仏教入門



第38講:祥雲禅寺について


密蔵院弘道会 奥野 真明


 現在、シンガーソングライターの福山雅治さん出演のビールCMに、智積院の国宝障壁画が背景として使われています。 お中元用なので季節限定だと思います。 国宝長谷川等伯・久蔵筆「松に秋草図」です。 通常は宝物庫に収蔵されています。 なお、大書院にはレプリカがあります。 現在の状態のものではなく、描かれた桃山時代を推測して再現したものです。 福山さんが大書院で正座しているように見えますので、編集でしょうか?
 今回は祥雲禅寺について、少しお話したいと思います。 他でも取り上げましたが、現在智積院がある場所には、かつて「祥雲禅寺」ないし「祥雲寺」と呼ばれた京都妙心寺(臨済宗妙心寺派大本山)に縁のある寺がありました。 もともとこれら障壁画も祥雲禅寺の書院にあったものです。 この寺院は桃山時代に豊臣秀吉が創建しました。 しかし、建物については天和2年(1682年)の火災で焼失し、現在は何一つ残っておりません。 秀吉は、祥雲禅寺近辺に方広寺(大仏、現在は大部分が京都国立博物館敷地、京都博物館の角に大仏前交番があります)、養源院(淀君発願)、豊国神社(徳川家により廃止、明治時代に復興)などを建立しております。
 愛宕真福寺(現在の総本山智積院別院:東京都港区)26世純雅(寛政8年(1796年)8月29日遷化)の記した「純雅雑記」(「智嶺新報」117号 明治43年11月号所収)を参考に変遷を説明します。
 天正13年(1585年)3月、秀吉が紀州根来寺を攻め、火を坊舎に放ちました。 根来寺には1万人ほど僧侶がいたそうです。その中で専誉が大和(長谷寺→豊山派)に、玄宥が京都因幡堂にそれぞれ仲間を連れ、逃げ延びました。 その後、徳川家康より慶長3年(1598年)に京都北野の地を賜り、慶長6年には豊国社僧寺2ケ寺を賜り300石持ちとなります。 元和元年(1615年)、祥雲禅寺は徳川家康の命により、智積院二代目の日誉に託され今に至っています。 祥雲禅寺はどうなったかというと、妙心寺の中に移したと「純雅雑記」に記されています。 秀吉が根来寺を焼き討ちし、50万石を没収し、堂宇のみならず仏像や経典を灰にしました。 因果であると結論付けています。 これについてはその300年後、京都智積院は徳川方の財産とみなされ、朝廷の命により土佐藩に貸し出されることになります。
 また、どのような建物があったかというと、
 「祥雲禅寺の法堂は重閣なりし、新義拝領より上の重閣にて、極月17日の法要を勤めたりしに、大衆退散の節重閣より階梯を下る足音、5条橋上に響きしと人語り伝たり、當時の講堂は、東福門院の對の屋を、信盛僧正拝領して建替いたる也、今2枚折金屏風7尺位と見えたるあり、是其節の襖なりしと、 (後略) 」
 このように祥雲禅寺のお堂は2階建てであり、新義(智積院)が徳川から拝領してから、12月17日の法要を勤めるとき、法要に参加した僧侶の2階から降りる階段の音が5条の橋まで聞こえたという人がいたようです。 足音についてはたとえ話だと思います。 また、おかゆをすする音のたとえも伝わっています。2階建てについては、今のところこの「純雅雑記」にしか出てこない情報になっています。 今後の研究に期待します。天和2年(1682年)に火災焼失したのち、東福門院より拝領して建て替えました。 この建物(講堂)も後に火災焼失(昭和22年)しております。
 祥雲禅寺の建立について、妙心寺が編集した「妙心寺―650年の歩み」(小学館 昭和59年)によると、「豊臣棄丸坐像および木造玩具船」の項目(ともに国の重要文化財)
 「秀吉は54歳にしてはじめて淀君との間に実子を得た。・・・(中略)・・・棄丸(鶴松)は天正19年(1596年)にわずか3歳で他界する。 秀吉は、妙心寺において葬儀をとりおこなった。 そして玉鳳院内にまつるとともに、東山の現在の智積院の地に祥雲寺を建て、この棄丸像をまつった。 『なき人の 形見に涙残しておきて 行方知らずも 消え落つるかな』と哀傷断腸の思いを詠んでいる。 (中略) 徳川家康が天下の権をとると、豊臣所属の祥雲寺は没収され、寺地は真言宗智積院に与えられた。開山の南下和尚没(慶長9年:1604年)後、その経営にあたっていた海山がこの木造を負うて隣華院に持ち帰ったのである。 (中略) 玩具船は棄丸の生前、守役が幼君を乗せて曳き遊んだものという。 (中略) 慶長元年(1596年)小形武具類とともに、秀吉から妙心寺へおさめられたと伝える。」
 秀吉は幼くして失った棄君(鶴松)の菩提を弔うため、豪華絢爛の障壁画のある祥雲禅寺を建立、栄華を極めました。 しかし、後に自身が攻めた根来寺の僧侶に与えられる。 不思議な縁でもって智積院は東山の地に存在します。



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