銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「女心(にょしん)と陂地心(ひちしん)


 本日のテーマにもかかってきますけれども、昔から「髪型をつくろう前にまず思へ、己が心の姿いかにぞ」という歌がありますけれども髪型、すなわち表面をつくろう前に、自分の心はどうなのかということを考えたほうが、本当のいい女になるのかななどと思います。
 今日は、女心(にょしん)と陂池心(ひちしん)という2つの心についてお話させていただければと思います。
 女心といいますと、欲深な心などと言ってしまうとお叱りを受けると思いますけれども、これはもちろん私が言いだしたわけではございませんで、先人たちがそのような心というものがあるなら、やはり改めなくてはならないという教えということでありまして、私の責任にしてほしくないわけ(笑)でございますけれども、そのへんをご理解していただいてご説明させていただきたいと思います。

 「女心」(にょしん)とよみます。欲深な心、別にこれは女性に限らず誰だって欲深な心をもっているわけであります。
お大師さまの著作の中に「小欲の想いはじめて生じ知足(ちそく)の心やや発(おこ)る」という文書がございます。我々人間というのは、欲望というのは、本当に自自身を振り返っても、数限りがないわけでございます。
これでいいということはございませんで、五を求めておって五が自分のものになれば十、十のものが五十、五十のものが百というふうに無限大に欲望というのはどんどんと大きくなっていくのかなぁと。それが人間なのかなぁと。それについてですね、人間の欲望というものはそうゆうものであるがゆえにですね。ほどほどにしておかなければいけないよ、ということが”小欲の想いはじめて生じ”でございます。
そして、知足(ちそく)というのは、すなわち「足ることを知る」ということでございますけれども、自分の欲望を理性で少しずつ小さいものにして、かつ今が足りていることを知るようにしてはいかがですかと、お大師さまが著作のなかで述べられているのでございます。
昔は、女の人は業が深いといわれてきました。もちろん、私はそうは思いませんけれども、男女を比べると、男尊女卑的な考え方もその中にあるのかなと思いますけれども、女性の人というのは業が深いとされてきた。業が深いというのは、いいかえると、業というのは煩悩ということですけれども、すなわち「煩悩=悩み」が、女性のほうが男の人よりも深いと解釈できるわけでございます。
それにつきまして、「ユイキョウギョウ」というお経がございます。お釈迦様が最後に述べられた教えでございますが、その中にですね、今から読んでみますけれども、目をつぶってお聞き願えればと思いますけれども...。
「よく知るがよい。欲の多い人は、おおくの利益を求める。ゆえに悩みが多くなる。その反対に、欲の少ない人はものをほしくないのだから利益をもとめるというようなことはしない。したがって、悩むことがない。欲深い人は、小欲の人を おおいに見習うがよい。そうすれば 欲が少なくなる」
と述べています。
欲が多いあるいは少ないとういうのは、その功徳についてもやはり、その中に説かれています。
 まず。小欲の功徳の1つめについては、人にへつらわなくていい、あるいはおべんちゃらを言わない、あるいはお追従を言わなくてすむ、こんあことが小欲の功徳と言われています。ですから、何か得ようとすれば 人におべんちゃらを言ってみたり、お追従を言ってみたり、あるいはへつらってみて、そして利益をえようとする。もともと利益を得ようとする気持ちが少なければ、そんなことをする必要ばないわけです。
 2つめの功徳は、小欲の人は相手に求めるものが少ないわけですから自分自身を卑下しなくても良い、とも説いています。
 3つめの功徳は、小欲の人は欲望がわかない分、心はいつも安らかでいられるのだと。
 4つめの功徳は、小欲の人は何事が起きても不足といって嘆くことがない。あれがほしいこれがほしい思い手に入らないから嘆くわけですけれども、もともと求めるものが少ない人は、今あるものに十分満足するので 嘆くことがないわけであります。 
 5つめの功徳は、小欲の人は、不足がないから腹がたつことがない。これが小欲の5つの功徳といわれるものです。この先に悟りの世界が開けてきますよと、このように「ユイキョウギョウ」には説かれています。と同時にお大師様は「小欲の気持ちが起こったら、きっと足ることを知ることがわかりはじめるであろう。そうすれば足ることのありがたさがわかるであろう」ということをいっています。
それが、「小欲の想いはじめて生じ、知足(ちそく)の心やや発(おこ)る」 というこの文書につながるのでございます。われわれは、目で見てはほしいなと思い、耳で聞いてはほしなと思い、鼻で匂いをかいでは食べたいなと思い、舌で味わってはおいしいからもっとほしいなと思い、手で触ってはこれはすごいなほしいなと思うわけでございますが、この5つのものを認識する要素、5つの感覚から実は欲望がおきてくるということでございます。ですからその欲望を抑えるときに、目で見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わってみたり、手で触れてみたりという日常生活の中で当たり前に動いている感覚器官から欲望が常に沸いてくることを知りつつ、同時にそれを制御するように頑張り努力していかなければいけないのではないかなと思うのでございます。
昨今は、景気が悪い、景気が悪いといわれながらも、食べるものは飽食ですし、ほしいと思えばですね、そこそこ手に入る。そういう時代であれば、なおさら欲望というのはどんどん増大していくのかなと...。昔、貧しい時代は、私は戦後生まれではございますので、あまり記憶がございませんけれども、何もない時代は互いに分け合ってですね、そして、互いに助け合っていたという時代があったわけです。生活が貧しいときこそ、ひょっとしたら人間の心というものは豊かにあったのかなと思うのです。ものに栄えて心が滅ぶなどといいますけれど、本当に今の現代日本社会というのはものに栄えてですね、心が滅んでいくという、そんな時代ではなかろうかと思うのでございます。つい先日、ある席で松本先生親子とお話ししたのですが、県のほうの問題で、あるいは市のほうの問題で、レポートをいただいて検討した中に、この上にも安行小学校がございますが1年間で30日以上登校しない子供を、長期登校拒否というのだそうですが、36名いるんです。で、川口の小中学校の全部データを見せていただいたのですが、0というところは1つもないのです。
少なくとも登校拒否している子供が5名から6名、多いところは40数名だそうです。そうすると必ず一クラスに一人か二人、登校拒否の生徒が いるという計算になる。なぜ、そんなふうになっているのかなと。で、今 私も 登校拒否の生徒を2人ほど面倒をみているのですが、父兄から言わせると、学校の先生の悪口をいうんですね。で、自分の責任はというと ぜんぜん感じていないのですね。そこに問題があるのかなと。ものが豊かになってくる。金さえあれば何でも買える。だから私たち親は、子供のためという口実をつけてですね、お金のための仕事をやるために、子供は学校に預けて、で、その子供が思うようにいかなければ、先生へ責任転嫁して学校の責任にしてしまっている。で、子供が帰ってくるけれども 仕事に両親がいっているから家には誰もいない。まして、一人っ子なら、兄弟がいませんから、TV相手に時間をすごすけれども人を思いやる心は育たない。そういうことだと思うんですね。
ですから、人間というのは、まず自分を振り返って、それから人を言うのはいいんだけれども、人のことは言うだけ言って、自分のことは反省のひとつもしないというのではやはり、人間として素直に物事の道理をわかった子供には育たないわけです。
親の責任もある、学校の責任もある、あるいは地域のコミュニティの責任もあるのですが、三身一体になって大人が考えていかないと、いまの子供たちが時代を担った時に、日本というのは、我々が思う以上 精神的な荒廃現象がおきてくるのかなと思うのです。皆さんがどなたも感じていると思いますが、そんな 危惧ではなくて危機感すら感じるのでございます。そういう中に、何でもほしいんだ、あれもこれもほしいという そういう心をちょっとでも抑えて、そして物で豊かになるのではなくて、やはり、心で豊かになるように、我々の人生を自分の責任として築いていく必要があるのかぁなと この”女心”という言葉の中から感じておるわけでございます。
 どうか、皆様方の「私は欲はない!」という人に限って欲がありますけれども(笑い)、欲が無いように、是非ご詠歌道をとおして学んでいただければ有難いなぁと思っております。

 次に、2つ目の言葉「陂池(ひち)心」ですが、陂という言葉は、最近あまりみなくなりました。意味は「地位や財力を利用して不正が生じる心」でございます。 
お大師様が24歳のときに、三教(さんごう)指帰(しいき)というお経の中で、儒教と道教と仏教という3つの教えの中で優劣をつけ、最後には仏教の教えは最高なのですよ、という物語(日本で最初の物語といわれていますが)を書いておられます。その中に、「浮雲(フウン)の富を願って 女泡(じょほう)の財(たから)を聚(あつ)め、不分(ふぶん)の福(さいわい)をもとめて若電(じゃくでん)の身を養う」という昔の言葉でございまして、非常に難しい言葉でございますが、この陂池(ひち)心の陂というのはですね、この前、四国に行って参りましたが、そこに灌漑用水のため池がございましたね、例えば、あれの土手のことをいうのだそうでございます。
ですから、水溜りに高い土手を築いて、水をいっぱい貯めようというようするに物を貯めようとする心を「陂池心」という言葉で表したものでございます。土手を高く築けば築くほど、水をたくさん貯められるわけで、財産というものも同じように、ほしい・ほしい、ほしい・ほしいと思いどんどん土手を造っていく、ものをためていこうとする心を、陂池という言葉で表したものです。
 徳川幕府の時代に 10代将軍で家治(いえはる)という方がいますが、そのときの老中が、かの有名な、田沼意次(おきつぐ)でありまして、その子供が田沼意知(おきとも)といいますが、この人がなぜ有名かと申しますと、この後に出てくる水野 忠邦(みずの ただくに)という老中がいますが 収賄の2大元祖といわれてるからです。
田沼意次(おきつぐ)という人は、今の日本経済のように悪くなった幕府の財政をなんとか立て直すためにさまざまな国の財力を元に改革に乗り出します。そうするとですね、老中ですから非常に行政のほうのトップに権力が集中しやすくなり、利害関係が生まれます。そこに収賄などがうまれてくるわけです。この田沼意次という人は 収賄の東西のどちらかわかりませんけれども横綱クラス。この息子の田沼意知(おきとも)という人も 親に負けずおとらず賄賂が好きな人であったときいております。
最後は、城内で他の武士に斬られてそれが元で亡くなるわけでございます。で、次の時代の11代将軍というのがかの有名な家斉(いえなり)でありまして、側室を40人ももっていたそうです。うらやましいですが(笑)。で、子供が56人。墺奥の女性だけで900人を越していた。この将軍の時代に水野 忠邦(みずの ただくに)という人が田沼を退けて、老中に収まった。
この水野さんも田沼さんに負けおとらず賄賂が好きな なんでもくるものはいくらでも おいていきなさい的な人だった。そういう中、政治が混乱して不平不満が爆発して、天保年間に大塩平八郎の乱などの引き金にもなっていったというふうに言われています。
いま耐震問題などで話題になっているヒューザーや姉歯設計事務所なども、これの心なのかなと思います。会社をどんどん大きくする、もちろん大きくするのはいいのですけれども、そういう中で表に出せないドロドロした駆け引きですとか利害の損得関係とかですね、そういうものをやって、そして最後にはあんな結果となってします。
そういえば、ヒューザーなどは、20年ぐらい前の会社でしたか。当時のバブル時代の会社ですよね、ですから、ここにも書いていますように、浮雲の富を願って、女泡の財を集め不分の福をもとめて若電の身を養う
「浮雲の富」というのは、雲がこう、わぁつと浮いているような巨万の富も同じように浮雲のようにいつか流れ去ってしまう富。「女泡の財」これも 莫大な財産という意味ですけれども、そこに泡とありますから、要するにバブルですが、いくら富を集めても、同じく泡のように無くなってしまう富。そして不分の富などを、「若電」とは稲妻という意味ですが、人の一生は稲妻のような短い人生なのに、どうしてあくせく追い求めるのでしょうか。
親身を削って、血吐を吐いてまで 努力していろんなものを集めたとしても 最後は泡のように消えてしますよ。そんな大きな地位や財産を利用してですね、不正までしてですね身を立てることはないじゃないですかというのが、「陂池(ひち)心」という言葉の教えかなぁと理解をいたしておるわけでございます。どうかですね、貯めたものは徐々にお使いただいて、いっぺんに使うとまた悩みが増えますので、いかがですか、これから、これ以上ですね、もういいんだと、生きていくまでにですね、皆さんも私は100億貯めなくてもいいんだと、10億ぐらいでいいんじゃない(笑)といった、おっとりとした気持ちでですね、人生を歩んでいっていただきたいと思っております。そんな意味で 今日は、女心と陂池(ひち)心について説明させていただきました。
言い忘れましたけれども、「知足」という言葉ですが、頭に不をつけて「不知足」となりますが、不知足の知をとると「不足」となります。すなわち 足ることを知らない人間が不足の人間ということになります。わたしくたちは、足ることを知る人間で、不足、不足といつも言って言うような不足の人にならないようになりたいなぁと反省をこめて思うわけでございます。
また、来月お目にかかります。ありがとうございました。