銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「火心(かしん)と械心(かいしん)」


 本日は、火心(かしん)と械心(かいしん)という二つの心についてお話させていただきます。火心とは火のような熱狂的な心としますと、ちょうど、先日、プロ野球で、日本ハムが44年ぶりに日本一になり、北海道では、4万4千人の人がドームに集まって一つに燃え歓喜したようなことを指すのでしょうか。

 仏教では、お大師さまが、秘蔵宝鑰(しぞうほうやく)の中で、火心を”火のごとく熱い心” としながら”初発心の時、便(すなわ)ち正覚(しょうがく)を成(じょう)ず” と記しております。これは、何かを始めようと心を火心のように起こせば、自然に悟りは開かれるものですよという意味です。
 人が物事に取り組む時、初めにこうありたいと心を起こし決意することは重要なことです。ですが、継続しなければ何の価値もありません。昔から、”石の上にも三年”と申しますように、三日、三月、三年というぐあいに 継続してこそ意味を持つものだからです。しかし、継続するということは、時に大変な苦痛を伴う場合があります。また、初心を忘れ、途中で手を抜いたり、休みたいと思うことさえあるでしょう。では、初めに こうありたいと強く心を起こすだけで悟りが開かれるとはどういうことなのでしょうか。
 昔から、この安行という地には 植木が盛んで有名でございますので、それを例にご説明いたします。小さい植木が一本立っているだけの場所には、その周りには、沢山の雑草がすぐに生えてまいります。しかし、この植木が成長して大木に育ちますと、植木の根元の方は日陰になるので雑草というものは生えにくくなります。継続して物事を取り組んでいるときも、”嫌だ”とか”休みたい”とかいう雑念や欲望はどんどん生じてまいります。人は次々に起こる雑念を取り除こうとするあまり、逆にそれに囚われてしまい苦悩してしまいます。この雑念は雑草と同じように黙っていても生えてくるのだから、それを無理に取り除こうとせずに、むしろ最初に強く決心して植えた木というものを、いかに育て大木にしていくかという方向に自分をもっていくことが大切なのです。やがて大木となれば、雑念も雑草のように凌駕して悟りという大きな木が残るというわけです。

 もうひとつの、械心(かいしん)ですが、”足かせをはめられたように融通の利かない心” という意味です。さきほどの、秘蔵宝鑰の中で”若(も)し、人、仏(ぶって)を求めて菩提心に通達すれば、父母(ふも)所生(しょしょう)の身に速(すみや)かに大覚位(だいかくい)を証す”と記されております。これは、”自分の心を開放しなさい、融通無碍(ゆうづうむげ)に物事を解釈していきなさい。手に印を結び、口に真言を唱え、心を三昧におけば、一念、この身に即して仏になることができますよ”ということです。物事を決めたり、問題を解決するにあたって、足かせをはめられ融通の利かない心で望んではいけません。好きだとか嫌いだとか思う気持ちでさえ、自分の狭い見識や感情から生じるもので、決して最初から存在しているわけではないことを自覚することが大切なことなのです。
 物事を何か始める時、最初に持った強い志を大切にして、初心を忘れず、こつこつ努力を重ねていくことが大切なのですよ。しかし、もし途中で何か問題が生じたら自分という狭い心に囚われることなく、逆にそれを仏様から頂いた試練だと思い、それを乗り越えていくところに人間の醍醐味、人間のすばらしさ、あるいは人間の成長があり、また、そのことを繰り返していくことで、我々は、お父さんお母さんから頂いたこの命の中において、仏の智慧、あるいは慈悲というものを体験しながら、最終的に悟りという即身成仏の世界が得られるのですよ。そんなことが、この二つの心から読み取れるのではないかと思います。

 言うは易し、行いは難しでございますが、近頃、この歳になりますとつくずく実感するのは、自分の気持ちというものは自分で決めているのだから、嫌だと思うことをなるべく嫌じゃない方に意識を持っていき、マイナスをいかにプラスに考えることが大切なのだな、ということです。本日も ご静聴ありがとうございました。