銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「狗心(くしん)」


 今日は 狗心(くしん) という心についてお話させていただこうと思います。”少しばかりのものを得て 大喜びする心” のことでございます。
お大師様の著作 秘蔵宝鑰 の中に

    法に任せて控馭(ヨウギョ)すれば
    利益 甚(ハナハ)だ多し


 法や戒律の下でこの世が治まれば、計り知れないほどの利益をもたらすということでございます。”法律”というのは、ご存知のように、社会一般に生活するうえで円滑に問題ないよう生活できるようにあるんだろうと思います。法律がなければですね、恐らくやりたい放題にやっても、それに対するペナルティもございませんから皆が自分の思ったようにてんでばらばらで生きていくことで、全然まとまりの無い社会になってしまいます。それを歯止めするために法律というのはできてきたわけでございます。
 それに対して仏教の”戒律”は、出家者同士が自分の教団の中できめた法律を戒律といいまして、サンスクリット語では、プジャー と言っております。一般に男性の出家者(比丘)の戒律は250戒、女性の出家者(比丘尼)は 350〜500戒ほど守るべき戒律あるとされています。
   今から2500年前ごろに 戒律が定められ 出家者は戒律を守り修行に励んだのでございます。戒律を破って、最も重い罪は払い罪であり、これは教団からの追放ということです。現在なら 世界中どこでも行けますし、国際結婚も当たり前という時代になってます。あるいは、私は 安行で生まれて恐らく死ぬまで安行にいると思いますが、人によっては故郷を離れた場所で生活して一生を終えられる方は沢山いらっしゃいます。
 室町時代や鎌倉時代を見ますと、ひとつの村が生活の基盤ですので、これを出れば命の保障がなくなってしまうというのが、この時代の村のあり方だったわけです。仕事にしても、生活にしても、村という共同体がひとつの防波堤であり、その場を追い出されるということは、捨人の立場になってしまうほどの意味があったわけであります。このように、戒律を破って教団から追い出されることは、同じように生命の危機さえあるようなことでありました。考えて見ますと、法律というのも国民の財産を守るですとか、あるいは生命を守るですとか、あるいは社会が円滑に動くというように作られた規律だと思います。それから、道徳というのも同じで、教団の運営が円滑にいくように、あるいはそれ以上に人間としてやっていいこと悪いことの最低の分別をするためにできたんだろうなと思います。そういう意味からしますと、先ほど皆様がご本堂でお唱えした、十善戒(注1)が一番の基本になっているんではなかろうかなぁと思います。十善戒を守ろうとすれば、例え日本の法律を一条一条知らなくても人間として十分に生きていけるのではなかろうかなと、そんな気もいたします。 みんながこの十善戒を守れば、世の中の殺人や窃盗といった犯罪も無くなりますし、そうなれば、警察も刑務所もいらなくなるし、よほど 世の中がうまく回っていくのではないでしょうか。そうはいっても、石川五右衛門ではありませんが、”悪の種は尽きない”というのが人間の世界でありますので夢のまた夢なのかと思ってしまいます。けれども、やはり皆さんが十善戒を常に朝お仏壇でお唱えして、今日の戒めにしていただいたらよろしいのではないでしょうか。法律というのは、その都度改正されますけれども、この十善戒というのはお釈迦様が亡くなられて2500年から今日においても、十分に人生の指針になるものであります。皆さんも、日々の生活の中で、僅かばかりでも与えられた物に感謝する心を忘れず、また、この十善戒を常に心がけていただいたらと思います。本日もありがとうございました。

合掌  


(注1)
十善戒 仏教では正しい生活習慣(「戒」)として次の十種類(「十善戒」)を挙げて います。
不殺生 (殺さない)  
不偸盗 (盗まない)
不邪淫 (人の道を外れた情事をしない)
不妄語 (嘘や言わなくてもよいことは言わない)
不綺語 (人の仲を割くようなことは言わない)
不悪口 (悪口を言わない)
不両舌 (お世辞や人の歓心をかうようなことは言わない)
不慳貧 (自分と自分が持っているものに対する執着心を持たない)
不瞋恚 (苦しみをもたらすもの・気にいらないものに対する怒りを持たない)
不邪見 (すべてのものは因・縁・果によって存在しているという真理を否定しない)