銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「室宅心(しったくしん)」


 お早うございます。もう、當山の桜も早く咲き過ぎまして、今、吉野桜が咲いています。庭掃除のおばさんに聞いてみましたら、竹の子の芽が出たそうですから、例年より暖かいのかな そんな四季の移ろいを感じるわけでございます。今朝も、護摩札のご供養をさせていただきました。
 今日は、室宅心(しったくしん)という心についてお話させていただきます。
 要するに自分の家の室にだけ拘る、自分だけの損得に拘ってしまう気持ちがおきたときというそんな意味で説明させていただきたいと思います。
 人間というのは常に煩悩があって、その煩悩に惑わされて苦労をどんどん火の中に薪を投げ入れるがごとく悩みに苦しんでおるというのがお釈迦さまの教えの出発点であるわけでございます。そうした迷いを、受け入れてどう克服したらいいのかというのを教えておるのが仏教の根底にあると理解を致しております。
 お大師様のお考えの中に、即身成仏というものがございます。それ以前は、悟りというものは、自分一代で悟りにいたるというのは不可能で悩みが次から次へ出てまいりまして、本当に悟りを得たというのは、輪廻転生を繰り返して永遠なる時間の中に、やっと悟りを得る事ができると言われておりました。しかし、お大師様は、”即身 この身にまかせて仏になれる” と言われました。
 本来 悩みというものは、肉体ではなく生きていく上での悩みであり、病をすることにしても、歳をとることにしても、あるいは死を迎えることにしてもやはり、悩みというものは心の悩みであって、それをいかに克服していくことになるかということです。本来は、”即身の身”というのは”心”と置換えてもおかしくないわけですが、心もお大師さまは、長く繰り返して悟りにいたるわけではなくて、親からもらったこの身に即して、仏になる事ができると説かれているのが即身成仏ということでございます。
 お大師様の書”即身成仏義”のなかに、”重々帝網(タイモウ)なるを、促身と名づく” とあります。重々帝網とは、何重にも網が重なりあっている事でございまして、糸が1本や2本では、魚を取ることすらできないですが、糸が何重にも重なって網となれば、沢山の魚をとることができます。我々人間の関係も自分一人で生きているのでなく、親、兄弟、学校の先生、先輩、職場の仲間とか社会の中でいろいろな方との繋がりの中で生活しています。
 もっと広く目を向ければ、自然界や、地球という存在ですら、太陽や衛星などがあって成り立っております。常にいろいろな方やいろいろな物の繋がりの中において、我々は成り立っておるのでございます。太陽がなければ、あるいは水がなければ、あるいは空気や万有引力がなかれば、我々の生命は成り立たないのでございます。すべての相互作用の中に生命を維持するための環境を与えられ、その因縁によって生き生かされております。原因の因と縁という条件が整ったときに、我々は生命を維持することができる。この縁が無ければ一日たりとも生きることは不可能なのだなと思うのでございます。因と縁をしっかりと見極め、仏教的な考えで申し上げれば、それは常に変化していて固定化されたものでなく、食べ物や環境、その他いろいろな諸所の因縁の縁が変わることによって老いるとか、病気であるとか、さまざまな悩みも出てくる・・それを仏教では諸行無常というのですが、そいういものをしっかり認識して仏の教えに近づこうと努力し、智慧として学ぶことができれば、仏様というのは、仏像のように目に見えたお姿としてではなく、苦しみを乗り越えようと修行し努力、精進していく心をもったときに すでに仏様の心に近づいていく事なのだと思うのでございます。
 そういう意味から、”自己中心”というのは、因縁の縁を否定してしまう心でございますので、常に我々は多くの人たちと人間だけでなく全ての繋がりの中において、自分というものがあるんだということを網と同じように一本の糸がバラバラでなく常に重なり合って生かされているという、そういうことを腹の底に、常に意識していく必要がありますよ そんなことを この”室宅心”は、教えてくれていると思います。本日もお寒い中、有難うございました。

合掌  


2007年4月吉日