銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「羂索心(けんじゃくしん)」


 今日は、”羂索心”についてお話させていただきます。”自分で自分を縛る心が起きたとき” とルビをふらせていただきました。自分の心を自分で勝手に縛り、窮々している心を ”羂索心” と大日経では書かれておりますが、お大師様の書かれました「続遍照発揮性霊集」の中に、


    自分を知るは仏心を知る
    仏心を知るは衆生の心を知る
    三心平等なりと知るを大覚と名づく


とあります。
 これは、”自分の本当の心を知ることは、仏の心を知るここと同じですよ”ということです。”三心”とは自分の心、仏の心、大衆の心ということ意味します。信仏の心が解るということは、皆さん一人ひとりが仏ですから、自分の心の中に仏心があるということは、自分と仏と他の大勢の人の心が実は平等でひとつであることに気づくことであり、”三心平等なりと知るを大覚と名づく” つまり、大きな悟りが得られる、仏になる、自分が仏になる、成仏となる悟りを開く事ができるという教えであります。
 それには、まず自分の心の修行というものから初めなければならない。
自分の心を知ることが、まずは成仏する出発点である。自分と仏の心が一体でありますから、自分の心が判れば、仏の心が判る。そこには慈しみとか、優しさとかいう慈悲の心が必ず芽生え、それを他の人様にもその心を振り向けことができる。それを日々の生活にそのまま実践することが仏様の行いと同じであり、仏様と一体なのですよ と”羂索心”は教えてくれております。
 仏様や他の人の心と一体になるには、まず無差別な気持ちになることが大切です。我々人間には、顔も歳も、性別も一人ひとり異なりますが、医学的に見れば人間ひとりの細胞というものは約60兆個の細胞からできている成り立っているそうです。一つ一つの細胞は原子から成り立っておますが、その原子は我々の目には見ることが出来ないミクロの世界で成り立っており、原子核のまわりを電子が衛星のようにぐるぐる廻っております。原子核の中には、中性子と陽子というのが廻っていると科学雑誌には書かれております。60兆個もの細胞の寄り集まりで、我々ひとつの肉体は成り立っていて、それが、ひとつ外れてしまっても、我々人間は成り立たないというのが科学的人間のようでございます。呼び名が違っても、あるいは、顔や年齢や性別が違っても、一つ一つの細胞の原子レベルで見れば人間はみな同じであり、ちょうど、ひとつの現象を言葉で表現する時に多種多様な言葉を使って表現するように、人の根底もみな一緒であり、無差別なのだと思います。
 差別の無いそういう見方にたって、私達は成り立っていることをまず自覚し無差別な気持ちにならなければいけません。
 人は、普段、それとは違った心で、自分が自分の心を勝手に縛り付けて苦しみの渦の中に捲き込まれていって悶々として苦しんでいるのではないかと思います。そんな時は、ものの考え方を180度転回して、どんな苦労であっても、仏が私を支えてくれ大きく羽ばたくためのひとつの試練を与えてくださっているのだと受けとめれば、その苦労というのも幾分やわらぎ、あるいはそこに感謝の気持ちというのも芽生えてその苦労も味わい深く、また、自分の人生の励みにもなってくるのではないかなぁと考えさせられます。
 仏の教えや、自分の心には差別は無いわけで、人間が本来あるべき素直な気持ちに立ち帰れる・・・・長く生きておりますといろんなことを考えてきますけれどもどうしても大きな心がもてない”羂索心”のような心が芽生えたとき、そういう心の塵をひとつひとつ振り払う事によって、仏の世界に導かれていく・・・・仏と一体という認識を持つことができる、そういう結果が導き出せる と信じて日々実践していただければよろしいのではないかと思います。本日も、ありがとうございました。

合掌  


2007年6月吉日