銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「般若心経を詠む心構えと観音について」


 お早うございます。今日も早朝からお詣り頂きまして誠にありがとうございます。今日は新緑が目に溢れんばかりの天候に恵まれ御本尊様とのご縁をお結びを戴きにお出かけ下さり重ねてお礼申しあげます。先般は、 皆様に般若心経の読み下しをさせて頂きました。普段 漢字で或いは読み下ししても中々意味が判らない 難かしいと思われていると思います。 要するに般若心経と云うのは仏教でいう「空」の思想なのだということですね。非常に深い深い意味のある哲学という要素がたくさんございますので 一字一字われわれは妙詩といっていますけれども一生懸命に勉強されてその思想に通じた先生方の講演でも聞かないと中々理解出来ないのかなあ、ということで自分自身でもいろいろな本を読まさせて戴いておりますけれども最後の一点で理解不可能な 或いは到達できない そんなところがあるわけであります。そのくらい その仏教でいう「空」の思想は非常に意味深い深いものがあるという事でございます。

 今もう一つ読まさせて頂いている経本に皆様よくご存知の 「観音経」というのがありますが、観音経というのは般若心経に比べますと解りやすいというか現世利益的なことを書いてあるのが観音経で 般若心経と いい対比をしていると思います。ただ心経の一番頭に観自在菩薩とありますがそれは観音様が深般若波羅蜜多を行ずる時とありますから その般若 知恵の力をもって真理とは何かを見極めようと行を行ずるとき五 蘊 皆 空 であって一切の苦厄は皆離れて 空であるぞとこう舎利仏に云い聞かせておる。 このようなかたち、相対する人に告げる例えば私が皆様にお話を告げるこういう形を経典では 「対告衆」(タイゴシュウ)といいます。心経或いは観音経にかぎらず非常に多くとっております。このように真理を仏様がそれを聞く方々に、告げる形で展開していく、始まっていくのが普通であります。それから お経を理解する方法として二つあります。「事釈」と「理釈」というものです。


事 釈・・・文面通りに信じて解釈し、理解していくこと。

理 釈・・・文章の間 すき間を読むこと、その奥の裏の精神といいますか、何を云わんとしてるのかもう一つ深い意味をめぐらして五蘊皆空を理解すること。


という考え方であります。ですからすらすらと般若心経を唱えてなるほど五蘊は皆な空なんだ、それを離れたら心の開放が得られるんだという解釈の方法と同時にもう一つ深い意味 知恵をめぐらして解釈し理解する方法です。他の新聞や小説の文面を読んでおっても 唯表面を読むのともう一つその奥の意味を捉えながら読んでいくという、諸々の事件問題に対しても単にこのような事象があったということゝ何故このような事件問題の起きたかの原因にまでもう一つ突っ込んだ解釈の仕方ということですね。この二つの方法「事釈」「理釈」があるという事を理解して欲しいと思います。
 よく布教する我々の世界の中でいろんなケースの質問を頂くわけであります。般若心経を読んで病気が治りますか?とか般若心経を読むと厄からのがれられますか?というそういう質問に対して模範回答を書いたたね品、そんな本も実際はあるわけでございますが、こうした経典を読むとき、中途半端な気持ちで読んだのでは、多分ご利益は求められないのだろうなあ、読むからには徹底して腹の底から一心不乱にお唱えをする、或いはご詠歌を詠える時も気持ちが散乱て暗誦して他に雑念がありますと時に文語を間違えてしまうという経験もあろうかと思います。そんなときは一心不乱でなくて、例えば虫眼鏡で日の光を一点に集めますと火がついて燃えてしまう、これが一心不乱ということかなあと思います。この譬えのように一心に心を込めて拝む。拝んだあとにあれ頭の痛みが消えていた、足の痛みが治っていた、精神集中することで拡大されて行くのかなあと。スポーツにしても、或いは四国お遍路 秩父観光霊場めぐりにしても普通でいえば大変疲てるのに宿に着いても大した疲れもないよと元気で居られる。皆様それだけ真剣になってお遍路なり 巡礼をされておるからなのかなあとそんな風に考えるのでございます。

 喜んで楽しく積極的に自分から進んでやっていけば、苦労も苦労でなくなり、あゝいい思い出だったとそんな気持ちになるのですから般若心経を拝んで病気が治るとか 治らないとか判りませんが、しかし我々良く小耳にすることは今申しましたように一心不乱に拝みその心の姿勢は仏様が認めてくれる。中途半端な行い拝みには救っていただけない。よろこびの心をもって一心不乱に物事に対応して行く姿勢が必要ではないかと考えるわけでございます。
 又話は元に戻りますけれども観音様というのは音を観る菩薩で 普通は音を聞くと云い観るとは言わないが観音様の場合は音を観るという字であらわしているのです。皆様方の悩み苦しみを音という字であらわしているのです。

 中国の古典に 文選(もんせん)というのがありまして唐の時代から科挙(かきょ)制度という非常に難しい今で言うエリート国家公務員になるための試験がありまして、その中の一つの題材に文選というのがありまして「生きる年は百に満たざるに常に千歳の憂いを抱く]そんな一文があります要するに自分のいのちは百歳までも生きるのは難しいが、その10倍の千年の憂いを抱いている いっぱい々々の心配事悩みというものを持っているという文章が出てまいります。.
 それが音という、音というのは悩みを持って苦しんでおる我々衆生の心を表しており観音様は音をして観ておられる。普通は目で見ると云いますが、看護士の看の字を分解すると手と目であり手を通してその人の病を看る 看護するという意味ですね。観音様の観は味を舌で観る、脈を観る湯加減を観る 五官(眼耳鼻舌身)の思考回路の五感を通じて判断する。観るというのが観音様であるということです。
 拡大解釈してみると観音様の観というのは真理を観るという だから皆様方の悩み苦しみというものは真理から見た場合に於いては本当に悩んでおる方を真理の世界に引き入れてあげるというのが理釈ということなのだと解釈できる訳であります。
 ”観音”という二文字の中に意味があるということですね。そのような観音様、要するに大勢の対告衆がいて、たかが一世紀しか生きられない我々のいのちでございますが、しかし生きておる間は人それぞれに多くの悩み苦しみを抱いておる。その悩みを観音様のお心を通して観て戴いて救ってくださるのではないでしょうか。本日もありがとうございました。

合掌