銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「大安心」


 今日は皆様ご承知のように正式には全国高校総合体育大会(高校総体)が間もなく埼玉のスーパーアリーナの方で皇太子殿下をお迎えになられて開催されるところでございます。高校生の若いエネルギーが結集日頃練習努力を積み重ねて来たスポーツの祭典 一つの結果を出すというそんな今日は開催日ということであります。お天気にも恵まれ稔りある成果に大いに期待も致しておるところであります。さて先日の時にもお話しました今皆様ご詠歌を奉納されて最後にお唱えをいただいた誓いの中に恐れる社会が明るくなるように安心の世界を求めて・・・そんな文語が出てきたところでありますけれども、中々その安心 良く一般的に云いますと癒しと云う言葉で言い表わしておりますが、厳密に言えば癒しと安心と云うのは違いますね。癒しと云うのはその時の問題がかたずけば癒される訳ですが、本当の安心と云うのは一生を安心の心境でおられる事だと思います。
 恐れ慄き 不安から離れたところの自分の心というものを持たなければいけないと言うのが安心であります。普通の癒しとはこれ又違う深い意味がある訳であります。ここに新聞の切り抜きを持って参りましたが、政府の方で今日、社会で起きている無差別的な殺人事件をはじめ非常に社会問題化されて来ておる訳であります。その原因というのは何かと云うと安心して仕事が出来る職場がフリーターとかニートといわれる言葉で広まっている現代社会に生活仕事の環境安定した職場を提供することが青少年に夢を与える事になる政府一丸となって間断なくそういう体制を整えていきたいということで、青少年大綱というもをつい3日程前に政府の方で閣議決定されたというそんな記事が出ておりましたが、本当にその通りだなあと思うのであります。
 誰もが不安のない人生はない訳でありますが、余りに現代はお先真暗 経済もアメリカの投資の失敗で世界中に何百兆という損害をあたえておる、日本の経済も先行きどうなるか不安感がある訳であります。 
 今朝も自分の中で不安と考えられるものは何かとメモしてみましたがやはりいっぱいありましたね。最初に浮かんだのは年金の不安、保険不安或いは通リ魔による無差別殺人これも社会不安ひいてはいつ自分が巻き込まれるやも知れないそんな不安、或いは若者の不登校とか引き篭もり又児童虐待 いじめ 老後の心配 或いは病気又東北で起きた続けての地震 天災による災害の心配 交通事故中国で起きた食の毒入り事件 僅か1〜2分の間にこんなに普段不安というものを抱えているということです。それらの不安というもを取り除いて、云い換えれば 大安心 安心というものをどういう風に求めていくべきか、般若心経の中にも観音経の中にもそして色んな経典のなかに無礙と出てまいります。「恐れなし」 と自分の心の確立というものはどう云うふうにしたらいいのかなあと考えてみますと、人にはどっかに自分の気持ちに甘えがあるのではないかということです。他人様に何とかしてもらえるのではないかと云う事です。
 市や国行政が何とか救ってくれるのではないかいざという時は会社が助けてくれるのではないかとそんな淡い期待と共に何か他所に物事を委ねておる自分の心の弱さを感ぜずには居られませんが、本来からすれば世間がどうであろうと自分の気持ちをしっかり持っておれば逆に世間から誉められようが悪口言われようがしっかりした自分の心に傷つくこともないということです。そのくらいの信念強い気持ちを持ってないと中々安心という心には到達できないのではないか、つまり他人に甘えることなく自分に厳しく生きるということが、大安心に生きる心のありようではないかと感ずるのであります。
 これ又以前にお話させて戴きました西郷隆盛(南洲翁)は「人を相手にせず 天を相手にせよ」遺訓と云う本の中にそんな言葉を遺している。そして彼はその様な生き方をされた人生であったのかなあと思うのであります。人を当てにしておりますと人の顔色を伺い或いはその人の一言一言が気になり次第に自分が不安になってくる。しかし天を相手にしておればそんな小さい事にいちいち目くじらを立てずにその堂々と生きる心構えと云うものが導きだされてくるのだろうなあと思うのであります。
 雨にも負けず風にも負けずで知られてる宮沢賢治という方は非常に仏教に造詣の深い方でありましたその教えから導かれた言葉だと思いますが何かの問題にぶつかったりしますとイライラしたり怖がったり或いはビクビクしてそんな中で我々は普段生活していることに何にも怖がることはないんだよと云い切れる素晴らしさはやはり 「雨にも負けず・・・・・・」の中から例えば我々もそうしたものを学んで行かなければ行けないと思うのであります。
 経典の文言を読む方法として大きな声を出して、或いは黙って心の中で般若心経を唱える黙読をする。 もう一つは身読というのがあります。身読とはご本尊さまのまえで経典の意味しておることを体で体験、実現行動して行く事が一番本来の仏教のあり方であろうと思います。唯、声を出し経文を読んで自分が納得するだけでは、まだまだ半分しか判っていないその教えを如何に広く人々の為に施し行くかというところに大乗仏教の大きな願目がある訳でございます。先程皆様お唱えしました様に智山派では最後に普廻向を唱和します。

 「願わくば此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に 仏道を成ぜんことを」

 この自分と共にというところに仏教の大きな知恵と慈悲の心が表れていると思うのであります。普段お一人お一人が祈るとき経典を読むその意図するところを如何に他の人に還元して行くかというところに大きな願目となるのであります。

 まだまだ暑い暑い日が続きますがご詠歌奉納の皆様方には7月8月のお盆合同法要そして8月24日の施餓鬼法要へ御本堂の仏器磨きをして戴けるということに本当にそういうことが今申しました身読を体現する布施行ではないかと敬意を表する次第であります。これにて今日の法話を終らせて頂きます。本日もありがとうございました。

合掌