銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「インド・同時銃撃テロ事件暴力的脅威を憂う」


 お早うございます 朝夕めっきり寒くなって参りまして今日は雨天の中ですが、皆様方に、今日お不動様の御縁日ご詠歌御放映を戴いたところでございまして誠にありがとうございました。実は朝夕テレビで流されていますが今朝の新聞を見ますと事細かに インドのムンバイで当地のホテル、病院、駅等で同時爆破テロが起きて27日現在死者125名その中に日本人1名も含まれている。負傷者327名 ホテルの中に缶詰状態で拘束されている中にいまだ日本人8名おいでになるというそんな記事が載っておりました。ムジャヒデンの名前を名乗っておりますが これはイスラム教徒の兵士ということで、我々イスラムという言葉よく耳にしますがイスラムという意味はものの本によりますとイスラムの神に対する絶対的帰依、神様を何が何でも信ずるというのがイスラムという意味だそうでありまして、神様の御心に添うならば何でも恐れることなく遂行してしまう。実行するというそれこそがイスラム信者としての基本的原理ということであります。我々の仏教というのはとてもゆるやかでありますが、イスラム教というのは神の教えや御心であるならば人が何と言おうと関係なく神の意思に添うことがイスラム教徒として絶対的理由ということになりますので世間で西欧が、アメリカが、何と言おうともそれに関係なく自分達の信念に基づいて一直線につき進むようであります。またそうでなければ絶対的な帰依、信心というものは生まれてこないと言う訳であります。
  昔 日本でも新興宗教の中に「折伏」(しゃくぶく)という言葉で大きな組織教団を作って活動している団体、そう云う意味では一蹴似たところがあるのかなぁと思いますが、何故そこまで絶対的なものを捉えるのかなぁと思う時、イスラム教もキリスト教も同じように最終的には神の審判を受けなければいけない。要するにキリスト教で云えば何時かは判りませんが、何時かイエス・キリストがあのお姿の儘でこの現実の世界に復活されてこの地球全体が神の国になって、そこで神に許されたものは永遠の幸福や永遠の生命を得ることができるが神に許されざるものは、永遠の眠りにつかねばならないという教えがあります。同時にイスラム教には天国と地獄があり絶対的な楽しみに満ち溢れた世界に行くのか、或いは永遠に死後の世界に行くのか、二者択一で選ぶ時 誰でも苦しみの世界でなく絶対的な楽しみの方を選ぶのは当たり前でありまして、二者択一の提示をされ、神の御心に添って最後審判を受ける時に於いて天国に行けるということになりますと、現実界でも死を恐れることがなくなるような精神状態になるのかとこう思う訳であります。神の御心に添って御心に添うことが最後の審判を受けたとき、その肉体も精神も神の御心に召されていると云う信念があれば、銃を持つ事も内戦に参加することも或いはテロ行為を行う事も全て神の御心なのだと云う一点に於いて、彼らのいう我々からすると暴挙とも云えることが当たり前になる・・・そんな事を感じるのであります。
それに引き換えて仏教というのは聖徳太子の

  「厚 く 三 宝 を 敬 え」

という言葉がありますが仏教には三つの宝(三宝)を「仏」「法」「僧」といい

1、仏 仏を信ずること、敬うこと
2、法 仏の教えを尊重する 信じて 仏の教えに従って行動する
3、僧 僧侶出家者という意味でなく教団 出家者もいれば一般在家の方も仲良く和合衆となること

常に全ての人間が平等であり男女の差もなく金があろうがなかろうが地位が高かろうが低かろうがそういうものありませんよ。全ての人間が等しく和合で生きて行きましょうという教えが仏教の三宝であります。ですから我々は少なくともご本尊様に帰依をする。そして仏様の教えを信ずる。三つ目に全ての人が仲良くそれぞれ研鑽をして仏の御心に添うように日々の生活努力をしていきましょうと云うのがこの三宝であります。
仏を信ずる どこの各宗教にに於いてもありますが私は仏教の大きな特色といえるのはこの僧という和合に大きな意味があり、こういう時代このようテロ的なものが世界中起きますとき僧という和合の心を大切にしていかなければならないと強く思うのであります。
たまたま中国の古典解説書を読んでおりますと古代の思想家 老子は

  「我に三宝あり 持してこれを保つ」

そんな言葉を遺しておられます

1、慈 人を慈しむ心 慈愛 奉仕する心
2、健 煩悩 欲望をコントロールする心
3、敢えて天下の先をなさず

世の中にあえてトップに立とうとする我欲目的行動を持たず、トップに立てる修練を積んだ人徳人格化をめざす心ことが大切であるということですが、それぞれ文化圏国々の違いはイスラムというような考え方、キリスト教仏教地政学上或いは風土的な問題が織り重なった中で現代の教義というものが生まれてきたのかなあと思うわけでありますがただ我々仏教徒という立場からすれば、その目的を達成する為には銃を持って或いは人を殺し人を傷つけるという考え方にはどうしても納得できないしついていけないのであります。
一昨年 私共の会とチベットの会の協力により、最高指導者といわれるダライラマ師を招聘して一時間半講演をお聞きしたことがありますが、彼は17才の時、中国がチベットに攻めてきて、身一つで山を越え今はインドの方に亡命政府を樹立しております。今年72歳になられる間いろいろとありましたが、その間、非暴力主義を貫き、話し合いでの解決を訴えづづけ、非暴力と云う一点を彼は50数年間亡命生活の中で徹底しておられる方であります。或いはインドの父と言われたマハトマガンジーも凶弾に倒れましたけれども、カースト制を含めて今のインドの問題非暴力をもって戦ってインドの父建国の父とインドの人々に崇め立て祀られるような行動をとられたと云うことを考えると決して暴力が良い結果を得るとは考えられない。非暴力的というのは時間がかかるまどろっかしい、しかし時間はかかっても営々と努力する、其処に大きな意味があるのだと今回のインドの同時銃撃テロ、アメリカで起きた9.11同時爆破テロ事件 暴力が暴力の連鎖を生むという アメリカの報復としてイラク攻撃、軍隊を派遣して今日に至るまであの様な惨状にあるということがひとつの証査であります。
暴力の連鎖から本当の平和は生まれないことを共に、我々もしっかりと考え肝に命じておきたいものです。家庭に於いても夫婦 親子の関係或いは会社の上司と部下の関係いろいろな関係の中で、仏教の云う或いは老子の云う人を慈しむ心というものがまず大切で、人を思いやる心というものがない社会には本当の精神的な平安幸福満足は得られないということであります。自分があって人があり、人があって自分がある原則に立って互いに同じ人格、同じ人間同士互いに支えあうそんな世の中の実現を目指して行きたいなぁと今回のテロ事件の報道を見ながら考えたところであります。
この問題は他人事ではなく日本もそう云う社会にある訳でございます。厚生省の元次官殺傷事件あれもすべて本当かどうか判りませんけれども30年前に飼っていた犬が保健所で抹殺されたというその恨みをはらすべく事件を起こしておる。これも考えてみると自分が痛めつけられたから苦しんだから暴力で仕返しをしようという精神構造からくる絶対に許されざるべきことであります。自分が気に食わないからと包丁で人を刺したり銃で撃つ・・・そんな日本の社会になっては絶対にならないのであります。
仏の説く、老子の云う慈しむ心 欲望をコントロールする強い意志と知恵を持ちたいものだと思います。本日もありがとうございました。

合掌