銘銘掃掃(めいめいはくはく)


「カースト制度を仏教的見地から考える」


 本日、ある新聞の記事で見ましたが、お釈迦様が生まれたインドで、現在は法律で規制している身分制度というのが、厳然として残っていると云う話でございます。身分制度、所謂、カーストと言うものでありますが、この記事を読んでいて、今日はこれをみなさんと共に考えてみたいと思います。
 昔、日本にも江戸時代には士農工商という身分制度がありました。明治時代になっても、貴族、士分、平民という分け方もあったのであります。 そういう身分制度は、国や法律では完全に否定しているのですけれども、インドには厳然として今だに身分制度があるというのであります。
その、カースト制度は四段階に別れており、その四段階にも入らないもう一つの身分の方々がおいでになる。その人たちのことを「ダリット」と 呼ぶのだそうです。そのダリットの女性の方々が、10月30日に埼玉芸術劇場でインドの踊り、シャクチーを踊るという記事でありました。
 カースト制度というのは四段階に上からバラモン (司祭 神に仕える身分の方々)、次にクシャトリヤ (王様 王族 武士の人たち)、3番目にヴァイシャ(一般庶民の方々)、その下にシュードラ(奴隷という身分の人たち)、さらにその四段階にも入らない、もう一つの身分の方々 ダリット(不可触民)・・・触るべからず民 という意味だそうでありますが、昔は手とか足に犬・猫に付ける鈴のようなものを着けられて、穢れるからその人には近かづかないようにという・・・本当に社会的にも人格的にも虐げられて来られたた方々の、日本で踊りの公演をされるという記事でありました。
 そもそも、インドという国は数千年の歴史の国でありまして、今から3500年位前、紀元前15〜16世紀の頃、中央アジアの方からインドに対して征服のためアーリア人という民族が入ってきます。インドを全部征服してしまい、原住のインド土着民の宗教すべて否定されて、アーリア系一色の思想あるいは宗教に変わってしまい、それから500年ほど経った紀元前10世紀頃、悪名高いカーストという、身分制度が出来たようです。
一番上のバラモン(現代多勢の方々が信じているヒンズー教の元) 神に仕える司祭が司ることになります。バラモン教が中心になり、最高の神様「ブラフマン」という呼び名の司祭は、神と意思の疎通が図ることが出来る、神の信託を聞くことが出来るという考えの中で、最高の位置におかれてた訳であります。そして、神様の信託を伝える役目をするのがバラモン、次の身分クシャトリヤは王様、武士、王族の位置づけでありました。3番目にヴァイシャの庶民、4番目がシュードラの奴隷的な人たち、更にその下にダリットという不可触民の人達で、近くに触っただけで身が穢れるという非常な差別を受け、又、受け続けている方々であります。
 新聞の記事には ダリット の方々が踊る公演中は、客席の観客は、自分達の顔を新聞で覆って、少女たちの踊りを見ない嫌がらせをするなど、想像を絶する現場があったと書かれております。それぐらい現代に於いても差別を受けている方々が日本で公演されるということであります。

 考えて見ますとお釈迦様は、一番上のバラモン教の次、クシャトリヤ出身、釈迦族の王子として紀元前5世紀(学説的には紀元前463年)今から2500年前お生まれになったのでありますが、カースト制度が出来ていて、お釈迦様がお生まれになった頃、インドでも一大宗教革命がおきています。
バラモン教の神の信託を受けるという一握りの司祭だけではおかしいという思想革命であり、単純にいえば今日、私たちも修行すれば神と直接対話する力があるとこういう意味あいだったのかなと思います。このような発想の転換によって一つの大きな宗教革命となって勃興してきた頃、お釈迦様はお生まれになったのですが、その頃、実際には「六師外道」という六つの大きな教団ができておりました。外道という言葉は、仏教以外の教えの六つでありまして紀元前5世紀頃のインド宗教界の在り様だったのかなと思います。そこからお釈迦様は後に菩提樹の下で悟りを拓かれたのが35歳の時でありまして、インド中80歳まで教化の旅をされたのであります。
 お釈迦様の一番弟子「舎利子(サリープッター)」は、般若心経の冒頭にも出て来ますけども、難しい空の理論を説き聞かせると云うような形で始まってますが、舎利子という人は知恵が一番、お釈迦様の十大弟子の一番弟子に数えられる舎利佛であります。この方の出身はバラモンであり、子供の頃から非常に聡明な頭脳の方であったといわれております。バラモンの教えも10歳そこそこで全部理解出来、お父さんも時の国王の師匠に当たる立場の方で、弟子たちも大勢いたということであります。僅か10歳ほどで経典の文語を全部理解出来、父親に代わって講義するようなこともあったというぐらい頭脳明晰な方でありました。
 もう一人、二番弟子の「目連」さんという方は、神通第一でありまして、お母さんが亡くなった後、目連さんが自分で神通の修業をした結果、母親が死後どうなっているのか神通力を使って、天界を見たらお母さんが居られず、地獄の方を見たら地獄の世界に居たということで、その地獄に落ちた母を救うにはどうしたらいいのでしょうかとお釈迦様に相談されて、その救済策を講じた結果、母を救う事が出来たという・・・これは、盂蘭盆会のルーツの物語がありまして、今日のお盆の行事と繋がっているのでございます。神通第一の目蓮さんもバラモンの出身でありました。
 お釈迦様の十大弟子には、釈迦族の方がたくさんいましたが、一つ面白いのはお釈迦様の従兄弟であるアナリツという方が、お釈迦様が悟りを拓かれた教理を聞いて非常に感銘され仲間を引き連れて後を追ったのであります。釈迦族の理髪師であるウバイ(差別的身分はシュードラ)の地位であり、アナリツの出家に荷物を担いだりして付いて行くのでありますが、自分も出家したいという気持ちが強くアナリツを追い抜いて先に出家してしまいます。そうするとお釈迦様の教団の中に於いては、身分、お金、カースト制度というものは一切関係がない、もし上下をつけるとしたら、出家の早い 遅い 或いは悟りに近づいているか、 まだかで、兄弟子 弟弟子のランクの基準というものはあったのであります。今まで 自分の召使であったシュードラの理髪師であったウバイは、教団の中に入ってしまうと一日の長で兄弟子になったのであります。そこには教団の平等主義が色濃く、修行が最も大切であり、悟りが完成したかどうか、出家の早い遅いかの考え方によって序列が出来るのだということであります。
 そういう意味で、仏教での、モノを計るモノサシというのは、決してお金とか地位とかではなく、相手が本当に立派な方であるかどうかという人格で計るべきである。つまり差別というのは、元々あるのではなく、自分の心、自分の目、感覚の表層面的面で区別というものを作っているだけでありまして、社会的地位が高い人だといっても、地位が外れてしまえば普通の人になってしまうのであり、永遠のものではないということであります。そういうものに眼を奪われない、本筋を見誤らないように我々は心して対処していかなければならないですし、我々の心の中にはいつも区別とか差別とか内在しておりますからそういうものを早く認識して取り除く努力が必要なのだと思います。
 インド社会以外にもまだまだ人々の心の中には厳然とした差別で苦しまれておられる方が大変多いという事を認識して、我々の日々の生活に差別区別に加担しないような暮らしをしていただきたいと思います。本日もありがとうございました。

合掌