一休入魂

2010年09月

第17回:心の苦しみ


 先日、テレビのニュースを観ていたところ、大阪で幼い子供2人が亡くなる、とても痛ましい事件が報道されておりました。
 この事件は23歳の母親が育児放棄をして、幼い命が餓えによって失われた事件でした。この飽食の日本において、食事が食べられず餓えで死ぬという非現実的な報道にとても驚きました。この事件で言われているのが、母親の未熟さ、幼さが評論家によって指摘されておりますが、はたして問題はそれだけでしょうか?
 この母親はまだ若く、夫と離婚をしてから地元を離れ、風俗店で働くなどして一人で子供を養っていたそうです。しかし、そんな生活が嫌になりホスト遊びに興じるようになり、いつしか育児放棄をするようになったそうです。
 私が感じたのは、この母親は辛かったんだろう、苦しかったんだろう。実家に還ることもできず、他に頼る相手もいなく、23歳という若さで子供2人を育てなくてはならないという現実に耐えられなかったのだろう、とても不憫に思います。なぜ、親族や友人が手を差し伸べてあげられなかったのか?いまさらながらに残念に思います。
 『葬儀なんていらない』の著者・島田裕巳さん曰く、
 “現代社会において、村意識が無くなり、コミュニティーが崩壊している”
 確かにそうかもしれません。親戚や近所付き合い、現代社会の人間関係の希薄さを多くの方が指摘されております。しかし、なぜ、この情が希薄な社会が改善されないのでしょうか? 評論家はあたりまえのことをあたりまえに指摘し、それを我々も納得する。しかし、改善する為に行動に移す人は少ないかもしれません。
 『ペイフォワード 可能の王国』という映画があります。これは“善意を他人へ回す”、自分が受けた親切を本人へ返すのではなく、他の3人へ渡す、すると多くの人が親切をうけ、親切をした本人も親切を受けるといった映画でとても感動した記憶があります。これは理想的なものですが、相手を思いやるということ、その人の立場になって考えてみる、言葉では簡単でもなかなかどうして、難しいかもしれません。しかし、難しいからやらないのではなく、“そう有りたい” と一人ひとりが思い続けることが大切なのではないでしょうか。かならず世界は変わるはずです。
 この世界で起こる悲しい事件は他人事ではなく、私たちにも責任があるのかもしれません。私たち一人ひとりが世界構成しており、私たちは意思が社会を作っているのだから。

合掌